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カミングアウト [性の多様性]

セクシュアルマイノリティに対する誤解や偏見、およびそれらに基づいた差別的な事案は、まだまだ一般的である。このためセクシュアルマイノリティ本人は、自分のセクシュアリティのことを周囲の人達には隠し、秘密として決して明かさないことを強いられがちである。そうなると、ちょっとした日常会話でも自分を偽らざるをえず、周囲との対人関係にうまく溶け込めず、社会生活に支障をきたすことになる。
また「男は男らしく、女は女らしく」というような規範が根強い中では、それらを本人自身が強く内面化していることもままある。そのため自己肯定感が持てず、やはり人間関係がうまく築けないことにつながりうる。性別違和が激しいトランスジェンダー系性的少数者の場合など、本人が意図しなくても、割り当てられている性別に見合った役割期待に反して、男らしくない・女らしくないものが滲み出てしまい、これが周囲から否定的に反応されることで、さらに自己肯定感を下げるスパイラルに陥るようなこともあるだろう。
こうして社会関係から疎外された性的少数者が、心を閉ざし精神的に引きこもった状態になることは少なくない。あるいは、物理的にも引きこもり生活に入る人もいるだろう。深刻な場合は自殺を考えるようなケースもしばしば聞かれるところである。
この、セクシュアルマイノリティが社会に対してありのままの自分をオープンにできないことに由来する状況を、アメリカでは「押入れに閉じこもってしまう」というニュアンスの比喩で「クローゼット」と呼んでいた。そして、それに対照する概念として提唱されたのが、ありのままの自分を認め、それを受け入れてくれる人との関係性を紡ぐことで、クローゼットから出てこようというもの。「出てくる/ come out 」ということで、現在は日本語圏でもカムアウト、もしくはカミングアウトという形で、この言葉はよく使われるようになっている。
したがって「カミングアウト」とは、単になにがしかの秘匿していた自分についての情報を開示することの意で使われがちな現状もないではないが、本来の趣旨からすれば、本人の自己肯定と周囲による受容が、良い形で相互作用を起こすことが肝要なのである。
日本国内でもカミングアウトをおこない、自身のセクシュアリティをオープンにして社会生活をおこなう性的少数者は、しだいに増えてきていると言えるだろう。政界や芸能界、学界などで活躍する人も複数知られるようになってきている。
もっとも、著名人以外では、カムアウトの範囲を絞ることもままあるだろうし、誰もが気がねなくセクシュアルマイノリティであることを明かせる環境には、まだまだ遠いのもまちがいない。訪日した外国人などから「日本国内ではLGBTの姿が見えない」との声も聞こえるのは、存在が表立たずに潜在化していることを示してもいて、諸外国にくらべて先進的な部類であるとも言い切れないだろう。
ただ、アメリカなどではセクシュアルマイノリティに対する宗教的な信念に基づいた憎悪を動機とする傷害や殺人の事件も深刻な問題として報告されてきたのにくらべると、日本国内での課題は、そのような次元のヘイトクライムよりは、もっとカジュアルで日常的なものに重心があるように見受けられる。日本でのホモフォビアやトランスフォビアは、いわゆる島国の閉鎖的なムラ社会体質における同調圧力と、偏見に起因する不寛容と悪意が結びついて、恒常的な差別コードとして立ち現れているものという側面も大であろう。したがって、そうした日本社会の特質を解きほぐすことで、これらセクシュアルマイノリティ差別を超克するためのヒントもまた見い出せる希望はある。


◎カミングアウトと家族
自身の性的少数者としてのセクシュアリティを周囲の人々に明かし、ありのままの自分で関係性を紡ぎなおそうとする行為は、必ずしも珍しくはなくなってきているが、いつ誰に対しても躊躇なくカムアウトできるかというと、それも困難な現状である。
一般的には、ごく親しい間柄の相手のみに絞るのが多数例かもしれないし、もう少し広く公言するにしても、学校なら自分の学級のみ、職場なら所属する課内のみに限定するようなこともあるだろう。
また、一口にカミングアウトと言っても例えば同性愛系とトランスジェンダーでは各種の課題やめざす着地点は異なる。さらにトランスジェンダーの場合、性別移行前の時点で心の内に抱える性別違和について開示するのと、性別移行後に移行前の性別について打ち明けるのとでも、やはりカミングアウトの意味合いがちがってくる。
そしてそんな中で、最もカミングアウトがためらわれ、結果的にいちばん後回しになりがちなのが家族である。近代家族制度の紐帯でいやおうなく固く結ばれた関係であるがゆえに、もしも理解が得られなかった場合には逃げ場がない。これは、親戚一同についておおむねあてはまることであるが、とりわけ同居する核家族の内部に対しては深刻な問題となる。最悪、生活のベースとなる重要な場が致命的に崩壊してしまうことが予測される。そんなリスクを勘案すると、家族へのカミングアウトはしないで済ませられるものならそうしたいという力学が強く働くのも無理からぬことである。
この、家族が必ずしも味方になってくれるとは限らず、あまつさえ最前線の敵対勢力になってしまう可能性があるというのは各種のマイノリティの中でも性的少数者に特有な現象であろう。
例えば民族的なマイノリティであれば、それが原因で子どもが学校でイジメられたりした際には、その問題を子と親が共有することも難しくない。しかしセクシュアルマイノリティでは、同様のケースでは親に相談できず子どもがひとりで抱え込んでしまうことになりがちとなる。むしろ、類型的なパターンで言えば、男の子らしくない男の子が学校でイジメられたときに、それを父親などに相談しても「それはオマエがナヨっとしとるからや。俺が鍛えなおしてやる!」といった「セカンドいじめ」を招来してしまいかねない。
社会のあらゆる場面で性的少数者が肯定的に受容される態勢が涵養されるような啓発が望まれると同時に、近代家族制度の閉鎖的な体質などを一度しっかり洗い直すことも必要かもしれない。